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行歩法(11月7日午後/戸山公園にて) |
交流会
第12回交流会は昨年の11月7日午後1時半から4時まで新宿スポーツセンターで行われました。帯津三敬病院院長帯津良一先生は「ホリスティック医学の現場から(2)」をテーマに講演されました。 |
講演される帯津先生(11月7日/新宿スポーツセンター) |
気功と私 |
神奈川県秦野市 私が気功をはじめたのは、今から五〜六年前で、二度目の練功が終わって見た外の景色が穏やかに目に映り、不安でザワーとしていた気持ちがフッと消えたからです。この不思議がきっかけとなって、今に続いています。 太極二十四式と行歩法を続けて、先生に勧められた指圧に月一回ほど通ううちに、足、腕、背中のあたりを自然に伸ばしたくなったきてはじめて、今まで伸びをして来なかったらしいことに気が付きました。「バランスをとって伸びをすれば、だいじょうぶですよ。伸びたいというのはいいことなんです。」すべり症もあって、伸びなどしないように病院で言われていた私は、先生のこの言葉にちょっと驚きました。バランスというのが先生の「キーワード」で、とても難しいと思いましたが、それ以上に体の要求があり、恐る恐るはじめ、その気持ち良さに、無理のないように、毎日続けるようになりました。 そして気功をお休みしてから七ヶ月後の去年の二月、改めて相模原のお教室に通いはじめました。一ヶ月ほど経って、「私、今まで何してたんだろう。」と感じるようになりました。中心とか、バランスとか、頭でしか解っていなかったことに気付いてきたのです。はじめは站とう功、運気法、順気法は辛かったのですが、起落回転法で背すじがピンと伸ばされるようになり、首の位置まで直されるようで、だんだんに体が起きて来ました。行歩法も気持が良くなり、腰を使って上半身を起こし、少しずつ足先から腰まで使って歩けるようになってきました。足を運ぶ感じが今までとはずいぶん違います。体がそれなりの順序で組み立て直されるように変化してきました。今では練功の時に、腰や足と上半身とが呼応するように動くのを感じる時があります。 最近、体は私が考えている以上に深い所で、自分を知っているのではないかと思います。今まで何だかゴチャゴチャ好き勝手にいた、幾つかの自分が、やっと一人にまとまったという感じがあり、ずいぶん楽になりました。振幅ばかりが大きくて、その中心を捉えていなかったとでも言うのでしょうか。ロープウェイなど見るのもいやだった私が、その中から思わず谷底を覗き込んで、長い間かなり平気でいられたのは、こんな体の変化と無関係ではないように思っています。 |
太極拳論 ― 「捨己従人」 考 |
埼玉県所沢市 これを、そのまま解釈すれば「自分を捨てて人(相手) に従う」という意味だが、太極拳の真髄を示している言葉だと考えるので、未熟ながら愚見を述べてみたい。 この言葉は、いろいろの言い換えることが可能だと思う。太極拳用語なら「五陰五陽」「剛柔相済」など、仏教用語では「自他一如」などが考えられる。このような言い換えが、可能とするなら「捨己従人」を改めて見直した時、人間性の根源に触れる、非常に深い味わいを、感じることの出来る言葉だと思う。 太極論として考えたとき「自分を捨てる」とは、どういう事なのか、一か八かで、相手の懐に飛び込む事なのであろうか、私は「勝ちたい、勝ちたい、という気持ち(自我)を捨てなさい」という意味に解釈したい。 謙虚な気持ちで、日々の練功を積み重ねる事で、内気は充実し、活き活きと躍動してくる。静中動、動中静、余る物も無く、足りない処も無い。執われの無い、宇宙と一体化した感覚を示しているのが、この言葉だと思う。 正に「煉神還虚」の悟りの域とも言うべき、最高のレベルを示している言葉であろう。その心境に達した時は、おそらく道端の小石ひとつ、草木の1本に至る迄、生命を感じ取り、その存在を認める心になるはずである。それこそ
「自他一如」であり、敵も味方も無い、争いの無い世界が現れてくると思う。 |
玉城康四郎先生を偲ぶ |
薛永斌 東京大学名誉教授 玉城康四郎(たまき こうしろう)先生が1月14日、肺炎で亡くなられました。享年83歳。 第1回交流会の後は、残念ながらお会いする機会はありませんでしたが、いつかまた講演の依頼が出来ることを念じていました。しかし、それは叶いませんでした。 玉城先生のご冥福をお祈り申し上げます。 |