横浜教室
龍野 幸夫
1996年10月無極静功との出会いは龍野和子さんとの何気ない会話がきっかけでした。
高齢になっても続けられる体に良い何かを探していた頃、気功、太極拳について何の知識もないままお話を伺い後日教室を見学させて頂きました。
そして「このゆっくりした動きなら丁度良い。」という程度の軽い気持ちで家から一番近い横浜教室に通うことにしました。
あれからあっという間の24年。このように長く続けることができ、しかも指導する立場にまでなれたのも薛先生を初め諸先輩の皆様、
ご縁を頂いた皆様、一緒に練功を重ねた仲間達、そして熱心な生徒さん達のお蔭です。皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
習い始めの頃は站樁功でただ立つことさえ難しく、三円式では1分もしないで腕が重くなり体がむずむずして早く次の動作に移らないかなと思う有様でした。
しかし最近では長時間気持ちよく立っていられるようになり自分なりに進歩出来たと感じています。とは言え、練功が進めば進むほど自分の中での問題は増えてくるばかりです。
知識として得た内容を陰陽の理に適った動きとして出来ているだろうか? 迷いは深くなるばかりで気功・太極拳の奥の深さをしみじみ実感しています。
気功関係の本を開くといずれも練功要領の第一に鬆静自然が出てきます。或る日の站樁功の練功から松静自然について考えてみたいと思います。
東の空が茜色に染まる頃、黄色い枯葉が舞いはじめた公園での練功。無極式或は自然樁と呼ばれる両腕を体側に垂らした站樁功で立つ。
いつもの通り下から順に形を確認して身体を整え、呼吸を整え、意識を軽く丹田に置き、全身をゆるめて立つ。
頭の中には様々な光景が去来するがそれも次第に収まり全身が温かい空気に包まれて静かな時間が流れる。
暫くしてふと悪い癖に気が付いた。私には以前から首が前に出て頭が垂れるという癖があった。太極拳を習い始めた頃手や足の動きを確認しながら練功したなごりかもしれない。
首筋を立てて、喉を隠すように顎を引き、百会をすこし後ろ上方へ引き上げて、首を伸ばしてからゆるめるとストンと納まった。それと同時に体の中にドミノが起こった、ように感じた。
ドミノは足の裏から始まった。足裏の踵、親指、小指に注意が向けられ足平となり、腰が改めて少し沈んで腰と背が真っすぐに伸びる。
クワが入り、尾閭が内斂、会陰が引き上げられ襠部が開いて円襠。胸が膨らみ肩井は踵に落ちる。腋の下に空間が出来て両腕は少し広がり弓型に。
これらの感覚が電撃のように足底から身体を通って百会へ走り抜け、再び静かな時間に戻った。
体内に不思議な感覚が訪れたのはそれからしばらく経ってからであった。体全体が硬くなり動けないように感じてきた。
まるで張り子になったように、体の表面はピーナッツの殻のような固くて柔らかい膜で覆われているが、中身はがらんどうで何もない。
優しく顔をなでる風が心地よく、一呼吸ごとに体の隅々まで行き渡るよう。木漏れ日を受けた草花はキラキラ光り風になびいて一斉に手を振っているように見える。
今まで気が付かなった虫の声や鳥の鳴き声、遠くを走る電車の音、更にはるか彼方から聞こえる飛行機の音もがらんどうになった体内に響いてはっきりと聞こえる。
呼吸は深くゆっくりとなり、頭に去来する雑念も減り実に気持ちの良い空間にいるという感じであった。
鬆静自然
鬆は放鬆、身体の緊張を解いてリラックスすることだが、ゆるむけれどもたるむことなく緊張とのバランスが必要と言われます。
ある時何人かの方から、「龍野さんの套路変わったね。」「柔らかくなった。」と言われたことがあります。それはちょうど放鬆を強く意識して練功を続けた頃でした。
それまでは正しい形を意識するあまり手指に注意が集中し、身体全体が緊張して硬くなっていました。
ある時上虚下実が出来ていないことに気づき、上半身の力を抜いて、全ての動きは丹田から、その原動力は足から、動きは腰でコントロールするという事を意識するようにしました。
形では特に足平と円襠を意識しました。日常生活でも信号待ちやホームに立つ時などわずかな時間でも足平と円襠の感覚を確認するように立ちました。
套路では両脚が必ず虚実に分かれますが、虚腿の襠部を開いて円襠がつぶれないように意識することによって上虚下実が保たれ、
ゆるんだ上半身は自由に開放されて柔らかな動きに繋がったように感じます。
しかし、それはまだ頭で理解した動きであり用意不用力と言われるような内からの自然な動きとは程遠いものだと感じています。
これからの練功によって自分の動きがどう変わってゆくか自分自身でも楽しみです。
静は雑念を無くし入静状態に入ること。私の場合は、先ず意守丹田により気持ちを整えます。その後呼吸に意識を向け、一呼吸一呼吸に注意を向けて静が熟成して深まるのを待ちます。
静が深くなると五感が敏感になりよりはっきりと覚醒するように感じます。そして静が深まれば鬆も深くなり、鬆が深まれば静も深まる。鬆と静がお互いに働きかけながら深まってゆくのを待ちます。
しかし実際にはこの日の站樁功のような深い静にいつも入れるわけではありません。
自然とは作為的でないこと。無極静功には24の形のポイント、五対、三弓、六要訣など多くの要求があり私達はこれらを指針として練功を積んでいます。
しかしこれらを強く意識すれば自然では無くなってしまいます。また一方では作為を無くして自然でありなさいと言う。
そこで必要なのは頑張らない、無理をしない、ある程度いいかげんにやる、そして内なる感覚を大切にすることだと思います。
本に書いてあるから或は以前先生に直された形だから、などというこだわりや思い込みをはずして内から湧き出る感覚に随う時自然になれるのではないでしょうか。
そして自然体で立つことが出来れば身体は自ずと正しい形を形成するのではないでしょうか。もしそうであるならば、練功に要求される形は目標であると同時に結果でもあると言えるわけです。
気功とは自らその生を養うために、自身の心の内にあるこだわりや思い込みというブレーキを外す訓練であり、その先に待っているのは命の質の変化ではないか、と私には思えるのです。
そこへ向かって少しでも進むにはどうすれば良いでしょうか?その答えの一つは宮本武蔵の五輪書にありました。
千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。
能々吟味有るべきもの也。
これには武蔵らしい多少ストイックな響きを感じます。そこでもう一つの答え、孔子の次の言葉にも耳を傾けたいと思います。
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
気功・太極拳をいつまでも楽しんで続けたいと願っています。
With/After コロナ
新型コロナ感染の影響が世界的な広がりを見せて、私達の生活にも大きな影を落としています。
コロナの影響で残念なことは、気功・太極拳の教室を休まざるを得ないことです。 このように長い期間休むのは初めての事ですので、生徒さん達のモチベーションが下がらないか心配しています。
また、写真にある「初動負荷トレーニング®」は単なる筋トレとは異なり、トップアスリートから高齢者や障害者のリハビリにも効果があるトレーニングで、
家族で週1~2回通っていましたが1年近くお休みを強いられています。
しかし、悪いことばかりではありません。気功・太極拳を学ぶ私達は世の中がすべて陰陽の関係で成り立っていることを知っています。
今まであまり考えなかった事を考えて新たな気付きがあったり、新しいことにチャレンジする機会を得たり、人との繋がりが以前より強くなったり、という良い面もありました。
例えば、研修②ではZoomを使って対面で集まる場とは一味違う研修会を楽しんでいます。 また、新しい試みとして企画された「禅x21世紀」研修会では
On Lineを利用した新たな研修会や交流の可能性を感じました。
私事においても、遠く離れた兄弟たちとZoomミーティングを開くことによって、以前よりずっと顔を合わせる機会が多くなりました。
コロナ禍の中で改めて感じたことは、世界は繋がっているということです。
コロナの感染自体は個人の問題ではありますが、同時に周りの人々、地域の人達、更には世界の状況にまで直結しているということを改めて実感できました。
ノーベル平和賞を受賞した国際世界食糧計画(WFP)の日本事務所代表である焼家直絵さんは『誰かのために行ったことは、ひいては自分をも豊かにすることに繋がる。』と言います。
いつ収束するかも知れないコロナ禍ですが、Afterコロナの世界はどんな姿になるのでしょうか?
国際コミュニオン学会名誉会長、シスターで文学博士でもある鈴木秀子さんは、小林一茶の句になぞらえてAfterコロナの世界に思いを馳せています。
雪とけて村一ぱいの子ども哉
『この句から私がイメージするのは、コロナ禍が収束し皆が笑顔で生き生きと働きだす社会です。
しかもその社会は以前とは大きく異なり、一人ひとりの中にコロナ禍で培った人生を豊かにする様々な知恵が備わっています。』
コロナ感染の充分な防止は勿論重要ですが、自粛生活を嘆くばかりでなく、この状況を有難いとポジティブに捉えてコロナが収束するその時を待ちたいと思います。
以上
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