無極静功の形
無極静功には体勢を正しく整えると同時に意識を正しく整えるために形について多くの要求事項があります。
24の姿勢のポイント、五対、三弓、そして円、松、展、合、静、自然の六要訣。
これらは無極静功の先達が長年に渡って研究、研鑽してつくりあげたもので、私達は気功の基礎をしっかり身につけるために、これらの正しい形を指針として練功に励んでいます。
正しい形とは
気功において正しい形を習得することは何故必要かというと、教科書にある通り、気が順調に流れて精神意識を安定させるためです。
ということは、正しい形には気が順調に流れるようになる構造的な奥深い力があるということが言えます。奥深い力の一つは、エネルギーの循環だと思います。
両掌が向かい合って繋がりを感じても、少し意識が変化しただけでその繋がりが切れるという経験は皆さんお持ちだと思います。
正しい形とは単に外形や位置だけではなく意識の持ちようも大切だという事ではないでしょうか。
基本の形の意味
これら正しい形は気功の基礎を身につけるための基本の形と言えます。
基本という事は、勿論初心者が初めに習得すべき事ですが、そればかりではなく各人の技量の程度に応じてその内容は変化するというのが基本の形の意味です。
初心者は初心者なりに、上級者は上級者なりにそこから引き出す技法的課題は異なるはずです。それ故に「ここはできた」と思うその感じは各自の技量の段階によって違うはずです。
逆に言えば、基本の形から様々な技術的課題を引き出せる人は、進歩し続ける人であると言えるでしょう。
薛先生が常日頃「指導員の責任は重大です。」と仰るのはここのところではないでしょうか。生徒さんそれぞれの段階に応じたアドバイスをする。
技量に合わないアドバイスは却って害になることがあるという事だと思います。
基本の形の意味のもう一つは、日常何の疑いもなく行っている自然な身体運用とは別の身体運用があることに気づかされることです。
形は私達が自然と思う姿かたちに対してある程度の制約を課すものですが、その制約的な身体運用を習得することによって身体は解放されるという事があると思います。
正しい形を習得するには
正しい形を習得するためには繰り返し練習することが必要です。しかし長く努力を続けたからと言って必ずしも上達するとは限りません。
努力することは必要ですが、努力の方向が間違っていては何にもなりません。
正しい方向に向かって正しい形を習得するためには、先ず気功及び形に対する正しい認識を持ち、その上で基本の形をきっちりと身につけることが必要ではないかと思います。
正しい認識とは、気功の基盤となっている陰陽、動静などについての理解と認識をさします。
強為(ごうい)と云為(うんい)
藤田一照という禅僧は自宅の庭にスラッキングという紐を張って綱渡りの練習をしています。それはいったい何のためでしょうか?
藤田一照さんは著書の中で強為(ごうい)と云為(うんい)ということについて次のように述べています。
『道元禅師は何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行うのを強為と呼び、思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行いの事を云為と呼んで対比させている。
例えば「背筋を伸ばす」のは強為、「背筋が伸びる」のは云為。
背筋を伸ばす場合には、「外筋」と呼ばれる「為すための筋肉」(随意筋)が意識的に使われるのに対して、「背筋が伸びる」ときには内筋と呼ばれる「在るための筋肉」(不随意筋)が自律的に働いている。』
そして座禅は強為ではなく云為で行われなければならないと藤田さんは言います。
決められた型に自分を当てはめるのではなく、身体自身から湧いてくる自然な力、動きに身を任せなさいと言うのです。スラッキングはそのための訓練であったようです。
心身を鋳型にはめ込むような座禅のやり方(強為の座禅)ではなく、心身が本来の力を発揮できる自由を保障しその発露として内側から花開くようにして生まれる座禅(云為の座禅)はどのようにすれば可能になるだろうか、という探求を藤田一照さんは続けています。
自ら(みずから)と自ずから(おのずから)
云為の座禅をやるためには、「自ら」の意識と「自ずから」の感覚の交流が必要と藤田さんは言います。
ある形を「自ら」意識すると、それに対して「自ずから」ある力あるいは流れを感じるようになる。
そしてその力や流れを「自ら」意識していると更にその反作用として「自ずから」ある感覚を感じるようになる。
この繰り返しの交流によって二つは螺旋状に深まってゆくことになります。
自らの意識主導で身体を動かすだけではなく、自ずから生まれる内部からの感覚を感じることが必要だということです。
体幹部の使い方
藤田一照さんにとって云為的座禅の手本は、安定感がありながら楽にのびのびと楽しそうに座る赤ちゃんの座り方だそうです。
身体感覚教育研究会主宰の松田恵美子さんは、藤田一照さんとの対談の中で、ヨーガや整体の立場から具体的な身体の使い方を説明しています。
上半身がスッと立っている感覚をつかむためには次の三つの事を重ねれば良いのではと言います。
上虚下実
軸を立てる
空間の感覚を感じる、或は感覚を自覚しようとする。
これらは無極静功ではお馴染みの内容ばかりですが、具体的な説明が多少異なるようです。
上虚下実では、重心を下げることを強調しています。
重心を下げるためには床との接触部、つまり座骨を身体感覚的に実感すること。
座骨を意識することによって重心が下に降りるという感覚が自然に出てくる。ここでも意識は自ら向けるけれども、感覚は自ずから生まれる。
站樁功のように立った場合は足の裏に注意を向けるということになるのでしょうか。無極静功では足の裏は動作の三番目の主宰です。
上体は勿論力が抜けてゆるむことが前提ですが、特に首と肩の力を抜くことが重要だそうです。
軸は下から上に立てます。腰が適切な位置に収まれば腰椎部がスーッと立ち上がり、胸郭部を軽く引き上げると胸郭部にスッと軽みが出てきて、顎を軽く喉に引き寄せると後頭部が勝手に下からスッとわずかに持ち上がる感覚が出ます。
というように外からかたちを押しつけていくのではなく、意識化と感覚の重ね合わせを追っていくと自然と背骨が立ち上がってくるということです。
また呼吸を使って紙風船が膨らむような感じで次第に下から立ち上がってゆくという方法もあるそうです。
空間を感じる方法はいろいろあります。例えば首を左に倒したとき普通の体操では倒す側に意識を置いて力を入れますが、ここでは反対の右側の肩と耳の間に扇形に広がる空間に意識を向けます。
すると感覚の起こる場所が違ってきます。
藤田一照さんも座禅の前にプレ座禅と称して、身体を左右に倒しながら伸びる脇腹の方を意識することをしています。
気功の場合
上の5~7は座禅における話ですが、これらはそっくり気功に当てはめることも出来ると思います。
気功の場合も、身体の中で何が起こっているのか、自然と湧き上がる微妙な感覚を感じる力が重要ではないでしょうか。
しかもその感覚は単にイメージとしてではなく身体感覚として実感的に感じる、無いものを有るように感じるというのが難しいところだと思います。
ただしそれは正しい形をきっちりと習得した上での話です。
意識主導で形を追い求めるばかりでなく、自ら行う意識と自ずから発する感覚のキャッチボールによって気功のより深い境地へと誘われるのではないでしょうか。
それでは、その微妙な感覚を感じる力を養うにはどうすれば良いのでしょうか? それには站樁功をおいて他にないと私は思います。站樁功は気功にとって基本のキであり、「気功は站樁功に始まり站樁功に終わる」という言葉を改めて確認しておきたいと思います。
或る日の站樁功
秋晴れの或る日近所の公園で站樁功を練功した時のことです。
身体と呼吸を調えて静かに気持ちよく立っているうち、首が前に出て頭が垂れていることに気がつきました。
先ずは足平と重心の位置を確かめてからゆっくり首筋を立て、喉を隠すように顎を引き、百会を後ろ上方へわずかに引き上げて、首を伸ばしてから頭部全体をふっとゆるめたその直後のことでした。
足裏の平足に自然と注意が向けられ、続いて腰と背が真っすぐに伸びるような感じがあり、クワが入って円襠ができ、胸が開き、両腕は少し広がり弓型に、これらの感覚が電撃のように足底から百会へ走り抜け再び静かな時間に戻りました。
その後は身体全体がやわらかな真綿に包まれたような、実に心地よい空間の中でいつまでも「何もしないで立つ」ことを楽しむことができました。
しかし、その後これ程に気持ちよい站樁功を経験することはほとんどありません。
最近思うことは、構造的にしっかりと立ち、上虚下実が実現できれば身体の各部は自然と正しい形が作られるのではないだろうか、ということです。
構造的にしっかり立つということは、意識的な力(随意筋)を用いずに骨格そのもの(不随意筋)で立つことが出来るということです。 その時は立身中正が保たれていることになります。
そして身体の力が抜けて十分ゆるんだ時、身体の中で何かが起こるのではないだろうか?
そのためには足平と重心の位置が重要だと思い常に細心の注意を向けていますが、中心軸はいつもゆらゆらと揺れなかなかピタリと決まることはありません。
たまに「これかな」と思うことがあっても必ずどこかに別の問題が見つかります。
気功の練功に行き着く先はないように感じます。
終りに
この原稿は「禅x21世紀」研修会のために書いたレポートに加筆修正したものです。
ここに書いた内容はほとんどが薛先生の講義や今迄に読んだ本の受け売りです。
皆さんがこれに従うのが良いかどうかはわかりません。 私自身書いたからと言って全ての事が出来ているわけでは無く、事実「云為」などということは今まで考えたこともありませんでした。
今回上記の研修会をきっかけに「形」に関するほんの一部をレポートという形で書いてみて、今まで練功の中でなにかモヤモヤしていたものが少し整理されたように感じ、今後の練功の方向がかすかに見えてきたような気がします。
「気功における形」について書く機会を与えて下さいました薛先生並びに無極静功の皆様、そして悩みながらも「禅x21世紀」研修会をまとめて頂いた西さんに感謝いたします。
ありがとうございました。
以上
2020年9月16日