研究レポート

《禅✖21世紀》研修会のためのメモ

大丸 敏之

大丸 敏之さん

★はじめに

 《禅✖21世紀》というNHKの番組に関心が多く寄せられ、新しい研修会が企画されました。図らずもそのレポートを書くことになりましたが、テーマが広すぎてどこに手がかりがあるのか、しばらく悩むことになりました。 以下は切り貼りだらけの引用・コピペになりますが、少しでもご参考になれば幸いです。


★玉城康四郎先生と「大安般守意経」

 仏教学者の玉城康四郎先生は第1回無極静功交流会(1993)で「気功と禅定」というテーマで講演されました。 長い間坐禅を続けられ、薛先生の目黒教室にも通われた玉城先生は「調身・調息・調心」から気功と禅定の共通性を話されています。
 『「調息」ということを中心に、おのずから「調身」身体を調えると、「調心」おのずから心も調ってくる』。
 そして、ただ息を調えて集中する「大安般守意経」を紹介されています。安般とはパーリ語のānāpānaのことでānaは入息apānaは出息、守意はsatiつまり「念」という意味で、 まとめると「入出息念定」ということになります。
 『仏陀はある時期、すべての弟子を退け、たった一人の弟子に毎日の食事を運ばせ、三ヵ月の間「禅定」に入られた。その「禅定」が「入出息念定」だった。 三ヵ月後に「禅定」を終え、弟子たちに〝自分(仏陀)は、三ヵ月の間「禅定」に入って「入出息念定」をしていたが、実は、そのままが如来住であった〟と言われた』
 玉城先生は「坐禅」も「気功」も、まったく一つのものだと考えておられました。また「気功と禅定には相乗効果があり、続けて行くと全く同じ境地に至る」とされています。(薛永斌著「養生気功法」■付録より)
※http://sunamachitaikyoku.blog28.fc2.com/blog-entry-35.html


★「マインドフルネス」

 アメリカやヨーロッパで流行しているというマインドフルネス、その由来はパーリ語の「sati(サティ)」にあります。 漢訳で「念」、英語で「mindfulness」または「full awareness」、日本語では「気づき」と訳されます。 もともとのパーリ語の意味は「気がつくこと」ですが、仏教的には八正道の7番目、正念(sammā-sati)「瞬間瞬間の自分に気がつくこと」「いまの自分に気がつくこと」を意味します。
 今日では、マインドフルネスは瞑想の同義語として、またメンタル医療の有力な方法として定着しています。医学博士のジョン・カバット・ジンは1979年にマインドフルネス・ストレス低減法を発表、 その医学的応用を広く提唱しました。以来米欧の多くの医療現場あるいは企業内のメンタルヘルスの現場で普及しています。
 マインドフルネスを上座仏教のヴィパッサナー瞑想と捉えることもできます。パーリ語のviは強調する前置詞、passanāとは「観察する」という意味です。 「いま(の自分自身)をくわしく観る」ということになります。
 無極静功第14回交流会では上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老が「ヴィパッサナー瞑想法」を講演されています(※参考/会報第13号)。 お話のポイントは、いつも自分の様子を「実況中継」する、つまり「サティ」するということです。例えば静かに坐っている時には「お腹が膨らむ、お腹が縮む」足が痛いときは「痛みがある」と絶えず「気づき」だけを保ち続ける。 こうすることで瞑想の集中が高まり、やがていろいろな智慧に恵まれ、苦しみ、悩みが消えていくと言います。
 今日のマインドフルネスの流行はティク・ナット・ハンの普及活動や著作によるといえます。彼はベトナム戦争中に被災者や難民の救済・学校の設立や孤児たちの支援を行い、ノーベル平和賞候補にもなりました。 その後フランスにプラム・ヴィレッジ・瞑想センターを設立、アメリカとフランスを中心に、禅とマインドフルネスの普及活動を幅広く行っています。
 またパーリ仏典と漢訳仏典の両方に明るく、漢訳雑阿含経から「大安般守意経(アーナパーナサティ・スッタ)」の訳出をされています(「日本語版/ブッダの〈呼吸〉の瞑想」所収)。
 「1 息を吸いながら、息を吸っていることを知る。息を吐きながら、息を吐いていることを知る」
 「7 息を吸いながら(今ここにある)感覚に気づく。息を吐きながら(今ここにある)感覚に気づく」
 「16 息を吸いながら、あらゆる現象の止滅の本質を見つめる。息を吐きながら、あらゆる現象の止滅の本質を見つめる」
 と全部で16の、呼吸をベースにした瞑想法が紹介されています。
 2011年にはGoogle本社でマインドフルネス・リトリートを指導したことが広く話題になり、また街頭の集団での「歩行瞑想」はまるで静かなデモに似て人々にマインドフルネスを浸透させました。
 現在、マインドフルネスの名称を用いる瞑想法やメソッドが数多くあります。しかしもともとの仏教的な意味から離れてしまった例も多くあります。この後はどんな流れになるのでしょうか。


★川上全龍師の「純粋経験」

 臨済宗妙心寺派本山塔頭/春光院副住職。マインドフルネス講師。お寺で生まれ育った川上さんにとって、アメリカ留学は仏教を外側から見る大きなきっかけになったといいます。 2004年アリゾナ州立大学・宗教学科卒業。その後、大学や企業で禅とマインドフルネスを指導。また脳波の実験に参加したり、LGBT問題に取り組んだり、きわめて活動範囲の広い禅僧です。 『世界のトップエリートが集う禅の教室』(共著)の著作があります。
 川上さんは瞑想はリラクゼーションではなく「観察と実験」だといいます。例えば卍(まんじ)マークはヨーロッパの人々にナチスのネガティブなイメージを連想させますが、 もともとのサンスクリットの伝統では良い意味を持っています。
 経験や教育、思想によって人は全く異なるイメージを抱きます。しかし仏教的文脈で言えば不思善不思悪、良いも悪いも存在しません。謙虚さを持って自分の反応を「観察」し、 固定概念や価値観がどこから来ているかを調べ、それを取り除いたら何が起こるかを「実験」するということが必要です。自分を観察することは極めて具体的・実証的な方法です。
 川上さんの瞑想の第一歩は自分の内側に細かく注意を向けることです。雨が降っている。雨の音を聞く。身体感覚は雨を細かく捉えることができます。禅ではこれを「純粋経験」といいます。
 自然を言葉や論理で捉えようとせず、言葉を忘れて今この瞬間に感じていることに集中します。心を空にしたり、コントロールしようとしたりせず、ただ事実を観察するのです。
 「純粋経験」は哲学者のジェームズの発想によりますが、その理論は西田幾多郎の「善の研究」にも引用されています。
 それによると純粋経験は「例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという 判断すら加わらない前をいうのである」。


★藤田一照師とボディワーク

 藤田さんは東大大学院教育心理学専攻課程を中途退学して仏道に入るという異色の経歴の持ち主です。 野口体操を野口三千三師に習い、坐禅の重要性を伊那漢方思之塾の伊藤真愚師(円覚寺で朝比奈宗源・足立大進両老師に師事されている)に学び、 その後内山興正老師に教えられて兵庫県・安泰寺で出家されました。1987年渡米、スティーブ・ジョブズにも影響を与えたとされる鈴木俊隆老師の後を受けパイオニア・ヴァレー禅堂の住持となり、 近隣の大学や仏教瞑想センターでの講演を行いながらアメリカ人の禅愛好家に「正しい禅」を指導されました。
 曹洞宗国際センター所長。『現代坐禅講義』、『アップデートする仏教』(共著)など多数の著作があります。
 1995年ティック・ナット・ハン来日の際の、若き日本の僧のためのリトリートには通訳として藤田さんも参画されています。
 現在は、神奈川県葉山町で独自の坐禅会を主宰され、朝日カルチャーセンターでは坐禅講座シリーズを指導。整体・ヨガ・韓氏意拳などの武術も含め多彩な分野とのコラボレーションを活発に行っています。
 坐禅指導の特徴はボディワークを積極的に取り入れることです。体の構造を整体の理論から捉え、足指のマッサージや体ほぐしなど、坐禅の前の調整を入念に行います。
 またバランス感覚を試すスラックラインを使い坐禅を考えるヒントを示します。ポイントは揺れを止めようとしないこと。今起きてるままにしておくということになります。
 「くつろぎ」ということが要点です。くつろぐと何かが見えてくるというのが藤田さんの坐禅。「休息万事・放下諸縁・一切不為」の「徹底的なくつろぎ」が大切です。
 また環境との繋がりが取り上げられています。「坐禅は重力との繋がり、呼吸は空気との繋がり、心は、音や光や匂いや味、身体感覚や浮かんではすぐに消えていく思考との繋がり、 だが実は繋がるのではなくて《もう繋がっている》」。
 坐禅は自分ひとりの力で行なっているのではなく、自分の内外のありとあらゆるものと繋がった「尽一切の坐禅」なのです。


★静坐養神法と坐禅

 静坐養神法と坐禅の形はほぼ同じです。まず結跏趺坐か半跏趺坐に足を組みます。ただ手指の形が異なります。 静坐養神法では左手親指と中指先を軽く合わせて輪を作り、その輪の中を通って、右手親指先を左手中指と薬指のつけ根におき、右手の中指先は左手甲の薬指と小指のつけ根に軽くおきます。 これに対し坐禅ではおおむね「法界定印」という形になります。左手の平を右手の平の上に置き両手親指を向かい合わせ軽く付けます。
 坐禅では丸い坐蒲かクッションを使います。お尻を少し持ち上げ、坐骨で坐って左右の膝を地面につけ、長時間坐れる安定した楽な姿勢を目指します。 結跏趺坐か安楽坐(あぐら)の場合は両膝がつきますが、半跏趺坐の場合はどうしても片膝が持ち上がってしまい、不安定な形になりがちです。 坐蒲を使いお尻を少し持ち上げた方がお腹に余裕をあたえ、長い時間の坐禅も楽になります。
 道元著「普勧坐禅儀」に書かれた坐禅の姿勢と「無極静功の姿勢のポイント」を対照してみます。
 「耳と肩と対し」=頭頂要軽、神気貫頂
 「鼻と臍と対せしめ」=収顎蔵喉=鼻先はお腹に合わせる
 「舌、上のあぎとに掛けて」=舌巻而抵
 「唇歯相著け」=牙歯微着
 「目は須らく常に開くべし」=含神正視(意識を内に、目は半眼)
 「鼻息微かに通じ」=収顎蔵喉、閉口要軽
 など姿勢の要点はほぼ同じになります。


★坐禅会の様子

 坐禅会は落ち着いた静かな部屋で行います。 参加者は入室後合掌低頭(一礼)し、叉手(胸の前で両手を重ねる)して右回りで坐蒲の空いた場所に向かい、着いて後、壁に向かって合掌低頭します。 次に右回りで後ろを向いて合掌低頭し、そのまま坐蒲に坐り体を回転させて壁に対します。
 坐蒲の前部分に少しだけ坐骨を乗せ、落ち着いたら体を数回左右にゆっくりと傾け(搖振)大きく深呼吸(欠気一息)し、姿勢を調えて(正身端坐)合図の打鐘とともに静かに打坐に入ります。
 坐禅は一回[一炷(ちゅう)]が約40分です。坐禅会では通常一炷を数回行い、坐禅と坐禅の間に5分程の歩行(経行/きんひん)を挟んでまた坐禅に戻ります。 全て終わってから、多くは提唱と質疑応答があり、希望者には老師の独参(個人面談)が行われることもあります。
 搖振は晃海法に似て、経行はまるで行歩法のようです。


★事実に教わる

 眼耳鼻舌身意=六感/「坐禅をするのに、六感を解放して、自分のために六感を使うことを一切捨ててしまえばいいんです。それによって、決定的にけりがつくん(悟れるん)です」。
 不思量底/「テレビの声が聞こえる。そういうことが自分のところにある。どうしたんでもないのに聞こえている。それが不思量底なんです。 あなたの考えに何も関係ない、考え方で声があるんじゃなく、考え方を飛び越えた事実が『今』ある。その事実に教わるんです」。
 自己の真相/「『今』の、その働き、そのものに教えられておいでになると、自分のあることも、何も彼も、すっかりなくなって、わからんほどに、すっかり、ものと一如になって、 一如になったことも知らずに生活しておる。そうしたところに、図らずも縁によって、その真相が手に入るんです」。

――井上義衍老師語録より


★終りに

 気功、坐禅、マインドフルネス。どこに違いや共通点があるのでしょうか。 「調息」、「観察と実験」、「尽一切の坐禅」、「瞬間瞬間の自分に気づく」、私にはどれもが重なり合っているように思えます。

大丸 敏之さん

★参考
 道元 1200〜1253
 ウィリアム・ジェームズ 1842〜1910
 西田幾多郎 1870〜1945
 朝比奈宗源 1891〜1979
 井上義衍 1894〜1981
 鈴木俊隆 1905〜1971
 内山興正 1912〜1998
 野口三千三 1914〜1998
 玉城康四郎 1915〜1999
 ティク・ナット・ハン 1926〜
 足立大進 1932〜2020
 伊藤真愚 1935〜1997
 ジョン・カバット・ジン 1944〜
 アルボムッレ・スマナサーラ 1945〜
 藤田一照 1954〜
 スティーブ・ジョブズ 1955〜2011
 川上全龍 生年不詳

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